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昭和42年11月20日 夜のご理解
ここんところ毎日隣接教会のご大祭で私ども親子はもちろんですが、総代さん、今日は杉さんがおかげを受けられ、信徒会長で秋永先生、自動車は文男さんが受け持ってくれましたから、おかげを頂いた訳でございますが、ま、言うならばお付き合いでございます。いっぺんに回らしていただいたらもう後は記念祭ぐらいに私が出ましょうけれども、若先生が ? 頂く。 そんなに親子づれ行くといったようなことはございますまい。言うならばお付き合い。けれどもここに私は思うんですけどね、いかにそのお付き合いでありましてもやはりあの信心にならなければならないという事です。それがお付き合いでありましても、やはりうる物だけは得てこなければならないということです。その願い、意欲というものが必要だということ。お付き合いで行ったじゃからお付き合いでなーんにもなかったんならほんとのお付き合い。お付き合いで行ってもそこに御神意のあるところ、これはお付き合いで行って、これは行かなければ頂けなかったものといったようなものを頂いて帰らなければですね、何事にも信心内容ということにはならないと思う。申しますように、お付き合いですけれども昨日は西久留米でしたが、西久留米でほんとにおかげを頂いてまいりました。一応まーあちらのご大祭を頂かせてもろうて、まあいろいろ頂きました中にも、今日は南久留米の足立先生のお説教でございました。どんなにひいき目に聞きましてもお上手とは思われない、けれども私、そのーボツボツとその話されるご自分の信心体験を話され、一時間あまりにわたって話されたんですけれども、もう終始感動、感動し続けた。私、大変あの水を飲みますから、もう祭典中でもちょっとお水を頂いて、ビンを横に置いといていただくんですけどもね、その話を頂く間全然乾きを覚えなかった。それから乾いておりませんですからね。おかげっというのは不思議なことですよ。私はほんとに有り難いと思う心がすぐにみかげのはじめとおっしゃる。と言って、ただあれを足立先生の話として頂いたらです、べつになーでもないお話なんですけども、けれども、私はその向こうにある御神意、神様の心、たとへば入信をもう迷うほど迷われ、16の年に、胸の病気を患われた。大分の在のかたである。もうそれこそ、あらゆる所にも参って手を尽くされた。とうとういけないから、病院に入院された。時にはもう手遅れということであった。そこで初めて金光様のご信心を頂かれて、無理にすすめられた。もういっぺん騙されたと思うてと言うて、お参りされたのが、金光様であった。
忘れもしません、私は初めてお参りさせて頂いて、親先生のお取次ぎを頂だかしてもろうて、ちょうど月次祭か、御大祭か、どちらかの御祭典であったと言うておられましたが、その時はたいしたことはなかったけれどもですね、なんとはなしに、これは金光様でおかげを頂けると言うようなものを感じたから、またあくる日病院から、一里ちょっとばかりのとこを歩いてお参りされた。初めて親先生のお取次ぎを頂いて、開口一番、先生が足立まさお、ね 足立先生にその言われたことは、もう忘れもしませんと言うて、言われることですから、あーなにかよっぽどすばらしい言葉であろうかと期待して、聞いておった。ところが、?先生にそのー、それがほんとに「今でもまだ忘れられません」あの時のその親先生の言葉は忘れられませんと言われる言葉はどういうことであったかというとね、「不足を言うてはならない、腹をたててはならない」これだけだったそうです。もそれが私にもそれがま大変なおかげとして、響いてまいりました。そうだなー「腹をたててはならない、不足を言うてはならない」もうこれは大真理ですね。本当から本当のことを追求すると言うけれどもこれだけはもういつの時代になったって、これはもうほんとに天地の大真理である。と私は思います。ですね、おかげを頂いていくために、人間幸せになっていくために、「腹をたててはならない、不足を言うてはならない」さあそのことに本気で取り組ましていただいて、日に3回ずつもお参りさしてもらう。薦められてから教会で修行さして頂くようになって、まあ お道の教師にならせて頂いたというお話をもうそれこそ、ボツボツとして話される。久留米の初代が残しておられるものの中に「天地神明に不足を言わず」という言葉がございますね。それこそ皆さんもお話でご承知のように、それこそ春の海を思わせるようなお方でございましたね、久留米石橋先生というのは。その石橋先生がですね、天地神明に不足を言わない、成り行きの中に起きてくる一切の事に決して不足を言うちゃならんと言うのが先生のご信心であり、しかもそれがです信心辛抱の中身をもっていただかれておるところにあのタイトルがあったと ね 内容がね 信心辛抱し抜かれてそして天地神明に不足を言わんというのが石橋先生のご信心だ なるほどお徳を受けられるとこう思う。甘木の初代がおっしゃっておられる「私は操り人形、神様は人形遣いじゃ」いわゆる自分というものを虚しゅうして行っておられる。神様が右を向けとおっしゃりゃ右を向く、左を向けとおっしゃりゃら左を向く、そこにはもう安武松太郎先生の我情とか我欲というものは影をうすーくしてしまっておる。場合によっちゃ右がええばってんと思いなさったことがあるかも知れません、けれだいども神様が左とおっしゃりゃ「はい」と言うて左を向いておられる。安武松太郎先生が入信50年のお礼のお祭りを内内でなさったことがあったそうです。信心されてから50年、そのことを神様にお礼を申し上げるお祭りを内内でなさった時のご挨拶が「安武松太郎信心さしていただいてやがて50年になります、願うことはずいぶんあった、沢山あったけれどもその願いがもし願いどおりになっておったら、現在の安武松太郎はなかった」とおっしゃった。いわゆる右と思う問題より左がいいと思うたけれども神様は右とおっしゃり左とおっしゃるからそのとおり操り人形にならしていただいておったら今日のこのおかげがあるとこうおっしゃる。そのご信心をいわゆる天地万物の中には一切のものが天地の親神様の親御物としての徹底したご信心、ご修行がですね、内容ともにああいうすばらし大徳いを身にうけられたのです。いわゆる足立先生が今日お話になるところの自分が初めて親先生のお取次ぎを頂いた時に
「足立さん腹をたててはなりません、不足を言うてはなりません、貴方の病気のことは2週間、日をきって願います」と言われた。今まで、血痰が出、それこそ血を吐いておられたのがその2週間だけがピタッと止まったそうです。もちろん自分も腹をたてないことに、または不足を言わないことに一生懸命取り組み、その一里余りの道を毎日、日に3回もお参りさしていただいたというようなその打ち込みかただった。御用すりゃ助かる、しかも汚い所を掃除するが一番おかげいただくとみんなから聞いてから、もうそりこそまぁだ16の私が一生懸命便所の掃除をさしていただいた。そして体にさわるどころではなくていわば痰の中にまじっとたそん血も出らんようにおかげを頂いた。ところが2週間のちにまた血が出だした。だからまたよんどこなしまたお参りしなければならないというような信心であったと。ね これはもう絶対の大真理ですよ。人間が幸せになるために腹をたてちゃならん、不足をいうちゃならん ねえ ところが腹も立てば、不足を言わなければならないことがあまりにも私どもの周囲に多いところにです、私は取り組み方というかねそんとこを修行さしてもらわなければいけない。
昨夜合楽会で、秋永先生、高橋さん、それから久富繁雄さんが一緒に参加してからそれぞれ、いろいろ話をしておられました。その中に繁雄さんの私はほんとにあの見事ですね、もうぽつぽつとして話される。自分の体験を通して頂いた神様、その神様をもうぽつぽつとして、「まちっとなんとか表現の仕方がありそうなもん、もう十何年も信心しよってから、まぁだあげなこつしか言いきらっしゃらん」と聞きようではそう聞こえんこともないけれど、それをかみしめ、かみしめ頂きよると、なるほどもう繁雄さんの信心をほうふつさせるような感じなんです。ね「ふぁもうこのひとなんか・・」わらくぎなない「もうそりゃしらごつじゃなかろう」というところがない。もう「ほんとにそうじゃったろ、
そうじゃったろ」と笑うようなお話ぶりですね。中にこういうことを話しておられます。私が椛目にご縁をいただいたのは家内の病気ですけれども、それから一年ばっかり参ったときでした。久保山先生から「久富さん、もう いくら椛目がよいしたっちゃですね、神様の実態をつかみきらんならなーにならんばの」言わっしやった。「神様の実態ちゃ何ですか」ち、言うた それがようと参らしてもらわにゃわからん 「神様の実態ちゃ何じゃろか」ち最初の時分、思うたち。 「何じゃろかち 一年もたちよってもわからんちゃあるもんか、聞いとって思うんですけども、しかし、それは繁雄さんの実感なんです。ね だから神様の実態、神様の実態って一年ぐらい考えて、2年目に初めてわかった。ね
それは話して聞いて聞くのじゃなくて、 この肌で感じておられる神様、自分の心でキャッチしておられる神様、なるほどこの神様におすがりしておけばというので、当時16人の所帯であった。ある夏に疫病にかかられた。まぁ赤痢か疫痢かといったような病気である。10人6人のものが16人の中に10人の者が次々とその病気で倒れて、ね それを大変な広大なおかげを頂いたけれども一番最後に失敗したことがあった。はぁ神様のおかげちゃたいしたことであるということがわたっかたけれどもその失敗しておるところからややもすると空気が抜けるように「やっぱり医者が言うたようにあの注射がきいたっじゃろか」と言ったような気持ちも起こってくる。まぁ先生いや先生じゃありません皆さん今聞いた皆さんあたしばかりはですねもうほんとにこの時初めて神様がわかったけれどもです、それから一年後月も違わん日にちは一ん日か二日かずれとったそうですけれどもそれと同じ病気を娘が又いたしました。その時に初めて親先生が一年前に言わっしやった言われたことを思い出さして頂いて、「今度こそはどげなこつがあったっちゃ失敗せんぞ」と思うてからおかげいただきましたら3日でおかげ頂いた。その時に一年くすぼっておった神様の実態というものを初めて握ることがでけた。そして信心のけいこをさしていただくうちにこういう間違いのない神様であるからこういう信心をさしていただいておれば必ずおかげが受けられるというその信念が私の心の中にだんだんでけてくるようになった。なるほど現在ではその意味合いでございます。そういうほうしだけれどもです、信心するようになったからといって別に家が美しゅうなったわけでもない、蔵を建てたと訳でもない、けれども、たとえば金銭なら金銭のことでもです、ね 大きな金がいるようになるときには大きな金のお繰り合わせをちゃんとなんとはなしに頂くようになってくる。もう間違いなく、だから不平を言わんでも済む、不足を言わんでもいいというのである、この神様に御すがりをしておればということになる。いわゆる神様の実態をなら全部が全部それを頂いておられるという訳でもなかろう、またそれをほんとにその不動の信念と言葉で言う不動の信念というようなのにはまだ程遠いかも知れません、ね これから先繁雄さんの前にどういうことが起こってくるかわからん時にどっこいとそれを受け止められんかも知れない。けれどもこの程度には分からしていただいた。ね 今日私皆さんに言うております今日私はその話をいただきながらですこれこそこれが大真理であろうと私思わしてもらう、不平を言うちゃならん、腹を立てちゃならんと言うこと。ね 「腹をたてちゃーあんたの病気は治らんよ、不足を言うちゃったあんたの病気は治らんよ」言われたから、もう本気で腹を立てまい、腹をたてまいと一生懸命それに取り組んだけれども、腹が立ってしかたがない。ね 馬車引きが馬車を引いていきよるそれこそ真っ黒にしゃくど色に焼けたその面やら身体やらを見とるだけでも腹が立つ。「俺だけがこの若さでどうしてこんな病気をせんならんやろか」と思おて腹が立ちよったとこういう訳です。それが腹が立たんようになるまでにはそれこそ大変な修行をさしていただいたというて、現在腹が立たん訳ではないけれどもそのことだけは忘れられない。そのこととにかく最後に結んでおられましたが、木の切り株に腰を下ろしても立つときには礼を言うような心もちになれよという信心を頂いている、「おかげを頂いております。」というふうに言っておられましたがね。私たちがほんとに腹が立ちよらんだろうか、不足を言いよらんじゃろか、思いよらんじゃろうか、なるほどこれではおかげが受けられん、ということを私ども分からしていただいたわけです。ね 不平のない生活、腹立ちのない生活、その為に繁雄さんじゃないけれども、本気で神様の実態というものを目指しての信心、このように間違いのない神様という信心、それを自分の身にてらしていただくところに、取り越し苦労もいらなければ、不足もいらない、腹たちもしては馬鹿らしい、ということになる。けれども
不平も、不足もあるけれどもそこんところ 詫びて引継ぎの腹立ちのない生活を求めての信心になっていく。私は今日いわゆるお付き合いでお参りさして頂いた西原のご大祭でしたけれどもそのお付き合いでも、その信心でなからなければならないということ、お付き合いだから何も頂いて来んよいということはない、何かを頂いて帰らなければという願いというものを持っておらなければならない。そのお話の中から私はそのような思いをいよいよ新たにすることが出来た。ね そしてこれはたしかに大真理であるなということをまぁ発見したとじゃないけれどもそれをほんとに実感として感ずることができた。ですから金光様の信心をすりゃですねここだけに焦点をおいてもおかげを受けられるとです。これが肺病なら肺病という病気だけの特効薬じゃないです。ね まぁあらゆる病気にこれは効く言うならば効く薬なんです。あらゆる難儀な問題に適応するところのおかげを頂けれるこれはもうエキスのようなもの、そのことに取り組んだだけでもすばらしい、だから取り組んでおるだけでは又失敗したになるから、いよいよ私どもは分からしてもらわなきゃならないことは神様の云わば御心であり、ほんとの神様の働きであり、いわゆる神様の実態というものを私どもは自分のものにするためのさまざまな修行、お参り、またはお話を頂くということが大事であるということが分かってまいります。いかに頂いても、参っても、どんなに修行さしていただいても、只今私が申しますような不平やら不足やら、久留米の初代がおっしゃったと言う「天地神明に不足を言わず」ね 甘木の親先生がそのことを実行されたという「私はいわばあやつり人形だ」という神様が人形つかいなら私はあやつり人形だという、自分な右だと思うけれども神様が左だとおっしゃりゃはいという素直なこころ、自分を虚しゅうしておかなけりゃでけるこっちゃないというそれぞれの信心内容をです、ね お互いがちゃんと持っとかなければなりません。そしてそれが結論としては天地神明に不足を言わんですむだけの信心、ね どのようなことの場合であっても腹立てんで済むところの私にならして頂くことに焦点をおけばおかげが受けられるという道なんです。生神金光大神 天地金乃神一心に願えおかげは和賀心にありなのですよ。ね 和らぎよろこぶこころの中には不足もない、もちろん腹立ちなんかあって和賀心が頂けるはずはないのですからね、どうぞ。